
(とある湖ではおそらく、こうなるでしょう)

(またはこうなるのかも。金環日蝕を見るには皿で浮かぶのが一番いいのだ)

(とある湖ではおそらく、こうなるでしょう)

(またはこうなるのかも。金環日蝕を見るには皿で浮かぶのが一番いいのだ)

(やってまいりました。大江戸八百八町! 甍だらけで遠泳にはもってこい、こい、コイ、雲の波も来い)

(ヒェー~~。この波は並大抵ではありません。イライラか!? 好意に甘えて故郷へ帰りましょう。パタパタ。)

(5月5日 産経新聞 朝刊)

(5月6日 産経新聞 朝刊)

(5月5日スーパームーン。いつもより大きく見えた筈)

(えび天道説巡講釈師、登場。まずはデカルトを講釈 ~~~)

(『方法序説』続き ~~~)
良識(bon sens)はこの世のものでもっとも公平に分配されている。なぜというに、だれにしてもこれを十分にそなえているつもりであるし、ひどく気むずかしく、他のいかなる事にも満足せぬ人人さえ、すでに持っている以上にはこれを持とうと思わぬのが一般である。このことで人人がみなまちがっているというのはほんとうらしくない。このことはかえって適切にも、良識あるいは理性(raison)とよばれ、真実と虚偽とを見わけて正しく判断する力が、人人すべて生まれながら平等であることを証明する。そこでまたこのことが、私どもの意見の多様なのはある者が他の者よりよけいに理性を具えたところからくるのではなく、私どもが思想を色色をちがった道でみちびくところから、同じような事を考えるわけでもないところからくるのである。そもそも良き精神を持つだけではまだ不完全であって、良き精神を正しく働かせることが大切である。きわめて偉大な人人には最大の不徳をも最大の徳と全く同様に行いうる力がある。また、ごくゆっくりでなければ歩かぬ人でも、つねに正しい道をたどるならば、駆けあるく人や正しい道から遠ざかる人よりも、はるかによく前進しうるのである。
私はというに、いまだかつて私の精神活動が一般人のそれよりも何かよけいに完全でありそうだと信じたことはけっしてない。おりおり、他の何びとにも劣らぬほど敏活に思索するとか、鮮明に構像するとか、記憶は豊富で、さもなければ即座に間に合うとか、私もそうありたいと願いさえした。精神の完成に有用なこれらの素質はといえば、その一つだとて私は持ち合わせぬようである。それでもいいわけで、理性あるいは良識が私どもを人間たらしめるもの、私どもを動物と区別する唯一のものであるかぎりは、それは完全にひとりびとりにそなわると私は考えたい。その理性が、より多いとかより少ないとかいうことは、それぞれの偶有性のあいだだけのものであるって、同じ種に属するそれぞれの箇の形相あるいは本性のあいだにあるのではないとする、かの哲学者たちの通念に私は従いたいのだ。
だが、私は憚らずに言おうとおもう、ある知見を格率に私を導いた道のごときものに、年少にしてめぐり逢えたことはまことに幸福であったと。これらの知見と格率から私はある方法を組み立てた。それによって、私のにんしきをだんだんと増してゆき、私の凡庸な精神と短い生涯が到達させうる最高点にまで、少しずつ高めてゆくという手がかりを私は得たように思われる。なぜなら私が自分を判断するならば、自分を信用するよりも信用しないように常につとめてはいるが、すでにこの方法からのちに述べるような果実を私は収めているのである。また、あらゆる人人の色色な行動や計画というものは、これを哲学者の眼で見るならば空にして無用と思われぬものはほとんど無いとはいえ、真理の探求において今までに自分が成しとげたと信じる進歩には無情の満足を感じ、単純に人間である人間の仕事のうちに、世間の転変にかかわりなく善良で、かつ重要なものが何か一つあるとしたならば、それこそたしかに自分の択んだところのものだと、私をしてあえて信ぜしめるような希望を将来にかけても抱かざるをえないのである。
(岩波文庫『方法序説』デカルト著 落合太郎訳 昭和四ニ年改版)
「比較的短期間の時間継起と地理的に限られた裁断面ーーすなわち、十六世紀以後のヨーロッパ文化ーーをとりあげることによってさえ、人間がそこでは最新の発見であるという確信を人々はいだくことができるにちがいない。」
「人間は、われわれの思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。」
「人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろう」
(『言葉と物ーー人文科学の考古学』ミシェル・フーコー 新潮社 p409)
デカルトが近代哲学の父と云われるのは、理性的な人間の発見者としてだろう。ルネッサンスの3大発明(印刷術・火薬・羅針盤)になぞらえればフーコーのいうように「人間」もまた「発明」された物に過ぎない。ただし西洋の白人・男性・30歳がモデルであり、第二次世界大戦において日本人(有色人種)は連合国(アメリカ)から人間として観られていなかったことでも分かろうが、デカルトから遥か後の二十世紀になっても非西洋人は人間に含まれていかなった。その発明品、人間(西洋人)に対し、
「人間は消滅しようとしているのだ。」
「今日、哲学がいまなお終焉にむかいつつあるという事実」
「人間が死滅しつつある」
(p408)
とフーコーは死刑判決を下した。なんという自虐哲学(考古学)であろうか。『言葉と物』はフランスでベストセラーになったというが、過去の(捏造を含む)歴史が対象の自虐史観(アジアに対しては加虐史観)以上の衝撃だったかもしれない。
しかしながらデカルトが言っていることはそれほど間違ってはいない。猿に人間ほど言語を使いこなす能力がないのは生まれつきだろうから……。人類は確かに理性を発揮出来る素地を持ってはいるのだ。
「良き精神を正しく働かせることが大切である」とデカルトが後天性を言うのも最もなこと。教育や環境や経験により理性の育ち方・働き具合に大いに差が出て来る。問題は、その後の排他的な人間観が人間以下(有色人種=非理性人=野蛮人)を作り出し、(教育不要の)植民地政策、帝国主義の正当化に使われたこと(日本人の理性的行動は非理性人の猿真似でしかない、と観られていたとしても不思議ではない)。
フーコーが人間の発明・消滅に気づいた一因に非西洋人が近代国家を創り上げたこと、日本の開国以来の活躍があったかもしれないのだが確かめようはない。
現実に非西洋の日本人が国際社会で活躍すればするほど、デカルトの西洋限定の発明が崩れていっただろうとは想像がつく。
重要なことは一度始めたらもう降りられないということ。開国以後日本人とはそういう命運を世界史の中で担ってしまっている。21世紀の今日も理性を主に後天的に身に付け、働かせる世界の雄としてのテlマは消えない。今後は三流と云われる政治で日本人の後天的に鍛え上げられた理性を発揮しなけれねばならない。そうしないとまだゾロ日本人の理性は猿真似にしか過ぎない、ことになってしまう。
「永久戦犯」は西洋的な考えだ。死後も社会復帰を許さぬという考え(先天的に理性を持たないとみなされた人・犯罪者は社会から永久に排除・追放する)はアメリカの犯罪者(例えば禁固300年とか)にこそ当て嵌まる(逆に理性を持ち市民として認められれば誰でもが陪審員になれる、とする)。その尻馬に乗ってA級戦犯との合祀、を認めぬうんぬんを言う日本人の思考は東西の差異を無視し、もはや固有な日本人の思考ではない。中国人が永久戦犯派だろうが日本は日本。「永久戦犯」を声高に言うのは盲目的親米か?媚中の証になる。
それ故に排他的理性を下地に裁かれた「東京裁判」自体も認めてはならない。デカルトの西洋一辺倒の「人間」の発明の容認にも繋がり、第二次世界大戦の日本の立場には新渡戸稲造が人種差別で苦悩・落胆したそれへの異議申立ての要素も入っていたからだ。
先天的VS後天的 という哲学史的側面で第二次世界大戦を捉えることも可能で、アメリカの第二次世界大戦極東での工作、持ってゆき方、真相を隠したままの東京裁判の実施。などの事象がデカルト的な・夢の理性に適っていたのか? それとも排他的な理性、偏狂なものに過ぎなかったのか? 戦後の先天的VS後天的 の行方がどうなったかは明白だろう。中・韓が今頃のこのこ参戦してきても日本が最強だったアメリカや列強と人間の意味でも戦って来た事実は消えない。
さてデカルトの人間。日本では戦前のエリート教育(その前は武士道)で対抗していたのだが、戦後民主教育では消された。アメリカの大学生が(社会・上層部へのパスポートである)理性的に秀でた人間であることを証明しようと懸命に精進している姿と照らし合わせると、雲泥の差が付いてしまった。こと理性(特にメタレベル、統治)に関しては個人の自覚・覚醒(自己鍛錬)以外に道の閉ざされた日本の教育の劣勢は明らかだろう。日本の教育制度・教育関係者がデカルトの意義を正確に捉えることはそこから抜ける第一歩だと思うが……。
『方法序説』別訳・全文は、以下のサイトでーー
『もろもろの学問分野で、正しく理詰めで真理を探究するための方法についての考察』ルネ・デカルト 著 翻訳: (c) 1999 山形浩生 *英語からの重訳

(産経新聞 3月22日)

(産経新聞 3月23日)

(産経新聞 3月24日)

(産経新聞 3月25日)

(産経新聞 3月26日)

(産経新聞 3月27日)

(産経新聞 3月28日)

(産経新聞 3月29日)

(産経新聞 3月30日)

(産経新聞 3月31日)

(ネコ荷電は滑り続ける、夜中まで……)

(ネコ貨車は滑り続ける、大氷原……大勇を乗せて)
ネット上のニュースはいくら重大でも消えてしまう。ので、画像として残しておきます。

(産経新聞 3月9日)

(産経新聞 3月10日)

(産経新聞 3月11日)

(産経新聞 3月12日)

(産経新聞 3月13日)

(産経新聞 3月14日)

(産経新聞 3月15日)

(産経新聞 3月16日)

(産経新聞 3月17日)

(産経新聞 3月18日)

(産経新聞 3月19日)

(産経新聞 3月20日)

(産経新聞 3月21日)

(4月のプールはこれだ! 政治家やアナウンサーや評論家や学者が365日あまりに嘘をつき過ぎるので、4月1日は真面目なことを言うべきなのだ!)

(時間よ、止まれ!)
野田首相は「昼行灯作戦」なのだと創新党の山田党首
ここから派生したエントリーです。「昼行灯作戦」が寝ぼけた戯言だったことはもう十分に証明されてるでしょう。では昼行灯とはーー

(闇夜を照らす、行灯)

(昼行灯の代表選手の大石えび之介)
夏木マリがかつて語っていた脳神経の問題では、日中でも脳波が半眠であるかの如き人が世の中には居るのだとか……。夏木マリもその一人。拙者もそうだ(えび之介談)。普段はそうでもないけれど、一度覚醒すればよく働く。特に有事・緊急事態ではそういう人が活躍するらしい……。座禅する必要もないのかもしれない……。

(これは昼の安藤奈津、いや昼アンドーナツを食べようとしているネコ電車、、、のようです)

(この桜の花は、もちろん力漲る桜えびで出来ているのだ。葉葉ー)

(あたまの上に咲いているのも、もちろん桜えび、ほぼ満開)
by えび男爵皿だ
永久戦犯とデカルト